CBC放送
 『金の殿
  バック・トゥ・ザ・NAGOYA』

 宗春が現代に現れる
 テレビドラマ
 東海地区限定

 1月13日
 24:40〜
 (1月14日00:40〜)

 1月20日・27日
 2月3日・10日
 24:55〜
 (1月21日・28日
  2月4日・11日
  00:55〜)

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 『みんなのニュース ONE』
 東海テレビで特集されました
 2016年12月20日
 北川和尚も出演

 『英雄たちの選択』
 NHK BS プレミアム
 で特集されました
 2016年
 安田先生・北川和尚も出演



戦国時代が終わって130年の時が流れた
享保15(西暦1730)年ころ。
平和と文化を謳歌した元禄時代も終わり
江戸時代中期の日本は
幕府の財政再建のために
質素倹約が励行され
幕臣のみならず、
庶民に至るまで
徹底した質素倹約が敷かれていた。

そのような中、
一人の男が将軍家に継ぐ
権威を誇る尾張藩主となる。

尾張藩の御連枝(分家)
梁川藩主となっていた
大久保松平主計頭侍従通春。

彼は八代将軍吉宗より「宗」の諱を拝領し、
徳川宗春となった。


 
だれもが驚く奇抜な演出をし
慈愛に満ちた政策(仁政)を施した人物

大名でありながら
自ら道化を演じ
派手なパフォーマンスで
領民を喜ばせた



宗春の規制緩和・庶民を想う政策で
尾張藩は変貌していった

それまで、
田舎の大きな村に過ぎなかった名古屋
江戸・京・大阪の三都に続く町へと変わり
大いに賑わうようになる


尾張の反映に
「京も興ざめた」
と言われるほどであった

その頃
蝗害や
行き過ぎた質素倹約により
元禄時代とは対照的に
日本中は灯が消えたように
静まり返っていた

ただ一つ尾張藩を除いては




生真面目に質素倹約を推し進める
宿老松平乗邑をはじめとする幕閣。
それは
宗春との対立は避けられないものであった。
国を運営する幕閣と
最も権威ある大名
さまざまな点で対象的であった
宗春の乗邑


そのような時
幕府は朝廷の五摂家一條兼香を
怒らせる失態をする

水戸藩から提出された
『大日本史』の出版問題である

北朝方の血を受け継ぐ当時の朝廷にとって

南朝を正統とする
『大日本史』は許されるものではなかった
朝廷の幕府の対する不信感は
抜き差しならぬものとなっていた


宗春の姪の子(姪孫)二人は
朝廷の最高権威の血統である



五摂家九條家と二條家を継いでいた。
朝廷が宗春に食指を伸ばすのも当然である


その動きを察知したのか
宗春が江戸に下った後に
尾張藩では御付家老竹腰正武たちによる
クーデターが起きる


そして、将軍吉宗は
京からの使者の報告を受けた後に
中奥に篭もってしまう。
その直後
、吉宗は尾張藩家老を呼び出し
宗春の隠居を申し渡した

そして同時に
朝廷対策の行動に出る。


宗春は一切の抵抗をすることもなく
隠居謹慎する。
尾張藩は火が消えたように
ふたたび大きな村へと変貌していった。

しかし
宗春の思いは
着実に
尾張藩にも幕府にも
引き継がれていく

九代将軍に家重が就任すると
松平乗邑は罷免



幕府はそれまでの質素倹約から、
宗春が主導した重商主義の
規制緩和へと政策が変更されていった



宗春自身も隠居謹慎後は
最大限の尊敬が払われ
謹慎ではあったが
悠々自適の生活を行う

彼は死後

孚式日吉権現として、
仏がこの世に
仮の姿をもって現れた神として
祀られることとなった


・幕府が質素倹約の時には開放政策をし
 金融緩和をした時には引き締め政策をした経済通。
・死刑を一人も出さなかった人権派。
・庶民の生き方をもっとも大切にした庶民派。
・踊りや祭りなどの文化を愛でた文化人。
・女性が「無理やり手篭めにされることがないように
 幾つもの政策を行い、女性を大切にしたフェミニスト
・将軍家の吉宗と家重とは深いつながりを持ち徳川宗家を大事にした。




大きな愛(慈)と広く寛容な心(忍)を説き実践した大名。
時代を超越したその考えや生き様は、驚愕するものがある。





徳川宗春
<江戸>を
超えた
先見力

(風媒社)

北川宥智 著
徳川宗春 江戸を超えた先見力 書籍表紙



それを記念して以下の書籍がく出版されました。
書店で入手可能
ISBN978-4-8331-0563-7
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